誰でも自分の中に答えがある
快晴で初夏を思わせるような陽気の4月10日(土)、ふうや内観研修所主催の内観懇話会が行われました。4月はヨーガ療法士のTさん(女性)に遠路お越しいただきました。
Tさんは3年前に奈良市で開催された第19回内観療法ワークショップに参加されて、3時間ほどの短期内観で木村秀子先生(米子内観研修所)の面接を受けられました。この時に初めて内観に触れられたそうで、小学校の時の母に対する自分を30分ほど調べた時に、ほとんど当時のお母さんのことが思い出せなかったそうです。そのことを木村秀子先生に相談した時に、「じゃあ一度、集中内観に来られたらどうですか?」と促されたそうです。翌年の夏に木村慧心先生が主催される北インドの集中修行会に参加されることもあって、「これはインドに行く前に内観に行っとかなあかん」と思われました。その後、春休みの時期を利用して七泊八日の集中内観に臨まれたのです。
集中内観に入る前は「一週間ってものすごく長く感じるんちゃうやろか?」と思われたそうですが、実際は思い返すのに忙しくて長く感じなかったそうです。「最初の二日間はこれまで自分の人生を立ち止まって振り返ったことがなかったので楽しかった」と仰っていました。三日目に面接者から「当時の状況に加えて、その時の自分の気持ちも調べてみて下さい」という問いかけがあったそうです。
それからは自分の気持ちを中心に内観を調べて行かれました。「振り返ってみると、私って何ていうことをしているのか。親に迷惑をかけたことばっかり、皆に迷惑をかけたことばっかりやな。どうしてこんな嫌なことばっかり調べなあかんのやろう」と帰りたくなったそうです。でも、「最後まで受けないと意味がないよと言われたし、このままダメな自分で帰ってもええんやろうか」と悩まれながらも、
内観を続けられました。
四日目も苦しい内観をされたようですが、ふと「自分って何やろうか?」と思ったそうです。そこから、「そう言えば自分は小さいころから、『人はどうして生きるのかな?』『人はどうして死ぬのかな?』とよく考えていたことを思い出した。木村慧心先生に出会ってラージャ・ヨーガを学んだ時に、『この方だったらその答えを教えてくれるんちゃうやろうか』と思っていた」と語って下さいました。
そして、最終日に向けて内観を深めて行った時に、妹さんに対する嫉妬心、否定的な気持ちを持っていた自分に気付かされたそうです。「妹に対してもそうだけど、人に対して嫉妬心というものを自分は持っていないと思っていたのに・・・。母に対して、『妹はこうやのに、私はこうや』という怒りがあった。自分は怒られてばっかりで、妹は怒られない。でも、母親である今の自分の立場から考えてみると、怒られて当たり前やなって思うのです」。
そして、最終日の最後の面接で、大学時代の母に対する自分を調べている時に、今まで断片的にジグソーパズルのように思い出していた出来事が一つに重なったような体験があったそうです。
最後にTさんは次のように語ってくれました。
「今まで私は人に対して嫉妬心を持っていなかったと思っていました。それが妹だけではなかったのですね。ヨーガ療法も同じで、話をすることで自分に問いかけて、自分で考えて出てくるのではないかなと思いました。朝、眼が覚めた時に今までのことが浮かんできて、そのようなことが出てきて、母親に対しての自分をもう一度考えないといけないのではないかなと感じました。
内観を受けて何か一つの機会をいただけたかなと思います。その後、インドに二週間行かせてもらった時もそうでしたが、長い人生では時々、ちょっと立ち止まって自分を振り返ってみることはありがたかったですね。やっぱりもう一度、内観を受けてみたいと思います。誰でも自分の中に答えがある。自分に問うことが大事だと思います」
Tさん、本当にありがとうございました。
(ふうや内観研修所 橋本俊之)
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木村慧心先生から学ぶ「ヨーガと内観」 例えば、とんでもない思い違いをして親を憎んでいたけれども、よくよく考えてみれば、こんなに有難い存在はなかったのだ。 (DVDより紹介) よくよく考えてみたらということが、自分の過去の記憶を客観視していることになるわけですね。だから、全てこれらの五つの鞘において、自分を客観的に見るということが、ヨーガになっているのです。内観でも面接で気を付けないといけないことは「親を客観的に見ている」のではなくて、「その親に対してのあなたの心がどうなっていたのか?」ということを、客観視させるようになっていますよね。そこの自己の認知方法を客観視させることだけで、面接者が何も言わなくても、本人が何事かを悟る/気付いていくということですね。これは七十年ほど前に、カウンセリングの創始者であるカール・ロジャーズがノン・ディレクション(非指示)の手法で「何も言わなくても、本人が気づけるでしょう」と言っています。それではなぜ、本人から正解を言いだすのでしょうか? それはこの五蔵説から言えば「歓喜鞘」自体が記憶の袋みたいになっているのですが、純粋意識(チェータンヤ)/見る側の自分ですが、見られる側と見る側というのがすぐに分かれるのです。この両者がきちんと分離できた/分別できたものが「ヴィヴェーカ・キャーティ」という「分別智」とか「弁別智」と呼ばれるもので、こうした智慧が内心から出てくるということです。この分別智とは『ヨーガ・スートラ』に出てくる一つの専門用語なのですが、内観でも常に対人関係における自分の心の働きを客観視しますよね。これをもっと深く見つめようとすれば「なぜ、そういう対人判断を下したのか?」という自分の判断基準まで見てもいいはずです。 |
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