内観を体験して
I.T(ヨーガ療法士)
集中内観に参加したのは3年前の春でした。壁にぶつかって悩んでいたとか、何か問題を抱えているとか、そういったことは特になく、自分としてはそれまでの人生で目の前にいろいろと起きてきたことが一応終結して、比較的穏やかな日々を過ごしていた頃でした。ただヨーガの指導者としては集中内観は必須であると聞いていたことと、自分自身をもっと知ることができるのならという思いで、さほど切迫した問題意識もなく参加させていただきました。しかし今振り返ってみて、人生のあの時期における集中内観は、私にとってなくてはならなかったものであり、あの体験がなければ今これほど安らかな気持ちで毎日を過ごせていただろうかと思うのです。本当に貴重な経験をさせていただきました。
内観では「していただいたこと」「ご迷惑をおかけしたこと」「してかえしたこと」というテーマで自分の過去を調べていきます。まず母親に対してです。母親に対する自分の身調べをし、次に父親、兄弟、と調べていきました。それから「嘘と盗み」についてと進んでいく。そして再び母親です。母親に始まり、母親に終わる。人は皆、母親の胎内で生を受け、この世に生まれ落ちるのであり、母親を持たない人間は誰一人いない。母親というのはすべての人間にとって普遍的な存在であるからこそ、また特別なのだと思いました。
内観を通じての最も大きな気づきは、親の尊さ、有り難さを心底思い知ることができたこと、その親に対してなんというわがまま、なんという傲慢な自分であったかということです。人生行路の途中で一週間歩みを止め、時間をかけて丁寧に丁寧に過去の自分を調べていく。その中で気づいたこと感じたことは、心の深い部分に刻まれており、その時からずっと、決して忘れ得ぬものとなっています。時間が経過しても弱まることなく、今なお同じ強さでよみがえってきます。
内観で、生まれてからこれまで親からしていただいたこと、その事実を一つ一つ調べ、積み重ねていくことで、その恩はあまりにも深く大きく、圧倒的な愛情によって自分が生かされてきたんだということを思い知りました。魂が震撼するほどの感動とかたじけなさに何度も何度も涙しました。しかもその恩に対してほとんど何も報いていなかったという愕然たる事実。親には心から感謝しているつもりの自分でした。しかしなんとちっぽけな感謝の心だったか。私は自分の至らなさをどこかで母親のせいにし、母親の育て方が悪かったからだと母を責める気持ちを持っていた時期が長くありました。しかし、それは違うのだ、すべては自分に責任があるのだとすっかり吹っ切っていたと思っていたはずのものが、実はまだ自分の中にくすぶっていたことにも気づき、その未熟さを恥じました。子を持つ親でありながら、自分のこの未熟さ。懺悔の思いいっぱいでした。
内観を受けた後しばらくして、母親が大きく体調を崩していきました。病との闘い。続く介護の日々。病院に泊り込む日々。自宅での最後の日々。そしてこの世での別れの時。その間ずっと、母のお世話をさせてもらえることが心から有り難いと思えました。少しでも母の恩に報いることができると思うと嬉しく、どんなことも喜んで引き受けようという思いでした。母のそばにいられる日々。一日一日がかけがえのない日々でした。それでも振り返ればまだまだ実に至らぬ自分ではありましたが・・・。
もし内観を受けていなかったなら、どんな自分であったか。もっともっとわがままな思いが出てきていたと思います。何かにつけ不平や不満の思いが頭をもたげてくるといった、底の浅い自分だったと思います。母を見送った後始めて母の恩の大きさに気づき、母に対して申し訳なかったという悔やんでも悔やみきれないという思いばかりが残る。そんな自分ではなかったか。親の恩に報いるという、子として、人間としての義務を全うすることなく母を見送ってしまったのではないか。
そう思うとき、内観という機会を与えていただいた天の計らいに心からの感謝の念が湧いてくるのです。
「親とは造物主の権化」であるなら、親への感謝の念が造物主(神)への感謝の出発点だと思い知りました。自分が今ここに生きているということは、生かされているということ。自分の力で生きてきたのではない。命を与えられ、計り知れないほどの恵みを受け続けてきたからこそ、今こうして生きている。生かされている。親への報恩の思い、そしてその背後におわします神なる存在への感謝の念が、人間的に生きるための根元であるのだと悟らせていただいたのは集中内観のおかげです。私という人間は内観を受けてやっと人並みの人間になれたのだと感じています。
親以外にも出されたテーマで思いと事実を分離し、事実を積み上げながら自分を調べていく中で、「自分とはどういう人間なのか」ということが厳然とした事実としてさらに自分に突きつけられてきました。その中で私は自分を不当に高く評価し過ぎていたことをますます思い知るに至るのです。もっとましな人間だと認識していた。なんということか。自分のありのままの姿を知らずして平気で生きているとはなんと恐ろしいことか。人は死ぬ前に自分の一生を一瞬の間にかいまみると言います。でも死ぬ前ではもう遅い。できるならこの人生が終わらぬうちに、自分のあり様を深く見つめ、生き方の修正を図りたい。内観はそれをさせてくれる場所でした。
内観が終わって出発する朝、自分にはまだ残された人生があるという感謝の念がしみじみとこみ上げてきました。こんな自分でもまたいつもの自分の置かれた場所に戻ることを許され、縁のある人たちに恩返しをし、感謝を伝えていけるのだという喜びが私を満たしていました。心から有り難いと思いました。
一人でも多くの人が、内観を経験する機会に恵まれ、より幸福な人生へと導かれますように願っています。内観は万人に有効な具体的方法を提供してくれているものだと思います。
改めて、内観でお世話になった面接者の先生、毎回の食事、お茶、お風呂の準備など一週間の生活すべてを支えてくださったスタッフの皆様、送り出してくれた家族、そして大いなる天の計らいに心から感謝する次第です。
ありがとうございました。
(上記の印象記はI.Tさんの了解をいただいて、『麻本呂婆第6号』より転載させていただきました。ありがとうございました)
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