内観の歴史

吉本伊信(よしもといしん)

  • 大正5年5月25日、奈良県大和郡山市に出生。
  • 大正13年、妹・チエ子病死。それを機に母と共に熱心な求道・聞法・読経動行の生活を過ごす。
  • 昭和11年、高田にて初めて身調べ(内観の前身)を体験し、大阪の布施にて二度目の身調べをするも挫折。
  • 昭和12年、ついに宿善開発。「この悦び、この感激を、世界中の人に広めたい。世界中の人が救われてほしい」と願う。
  • 昭和15年、森川産業有限会社社長として、大阪の日本橋で内観普及と商売に励む。
  • 昭和24年、結核に感染して大喀血して病床につく。
  • 昭和28年、病も癒え、事業から引退。大和郡山市にて内観道場を開設する。
  • 昭和63年8月1日、永眠。

発心の地・法隆寺(妹の死、母の求道による発心)

 法隆寺は飛鳥時代の姿を現在に伝える仏教施設であり、聖徳太子こと厩戸王ゆかりの寺院。創建は推古天皇15年。1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録。

「数え年四歳であった妹チエ子が、ふとした風邪がもとで、ツボミのまま幼逝しました。二歳余りの可愛盛り、全く目の中にいれても痛くない掌中の珠であったのを、わずか五日ほどの病で失ったのですから、母の嘆きは大変なものでした。妹は生前、よくお寺の鐘を聞いては『かあちゃん、お寺へ参ろうよ』とせがんだそうです。世帯盛りの忙しかった母は、お寺で説教があっても、父への遠慮気兼ねもあって、娘を連れて参れなかったことを大変悔み、思い出すたびに、『チエ子さん、かんにんしてや。かあちゃん悪かったなあ。かんにんしてや。かあちゃん悪かったなあ。かんにんしてや、連れて参るで』と泣きながらチエ子の写真を抱いてお参りを誓っていました。(中略)母は法隆寺のお説教にも、亡児の写真を抱いて毎年通い続けたものでした。幼な子を諭すような御法話に夢中で、約五キロもある遠い道を、暑い炎天下にかかわらず、小走りに急いだ母の真剣な姿が思い出されます。初めて母が法隆寺にお参りしたとき、講堂の前で『チエ子さん、お前をこれから毎日休まず連れて参るでえ、かんにんしてや』と号泣慟哭して地面にひれ伏したんだそうです。その堅い決心と誓いが、子を思う母の一念が、毎年百日間も休まずに通わせたんでしょう。(中略)十七歳になった私は、母の勧めでお寺へ毎夜行って、お経を本格的に学ぶことになりました。」(引用:吉本伊信『内観法』)

「伊信先生の妹のチエ子さんという方が、風邪で、僅かな患いで亡くなられました。お母さんは40歳だったらしいのです。そのとき、お母さんは、一生懸命、道を求められるようになったらしいのです。チエ子さんの写真を懐に入れて、あそこ(大和郡山)は、法隆寺とか、東大寺とか、斑鳩の里ですから、そういうお寺がいっぱいあるのです。ただ、お寺には行かれたのですけど、眼が悪かったのですね。何か涙が出ない、いつも眼が乾燥する病気だったらしくて。お母さんは自分が読めないので、伊信先生にお寺からもらってきた刷りものを読んでもらったようです。そういう役を伊信先生がしておられたらしいです。小学校2、3年の頃は、『正信念仏偈』を全部暗誦するくらいになっておられたらしいのです。だから、お母さんの眼が悪かったっていうことが、そういうふうな結果をもたらすこともあるわけですね。この方(妹・チエ子さん)が亡くなられたっていうことがきっかけで、お母さんが法を求めるようになられたのです。だから本当に、悲しみがそういうふうに命に生かされて、内観を生み出す元にもなっているというのは、世の中というのは複雑で、よく出来ていると思います。」(引用:長島正博『吉本先生ご夫妻を語る』)

修行の地・松尾山(悟りを求めて、独悟の地へ)

 天武天皇の皇子舎人親王が、養老2年(718年)に厄除けと日本書紀編纂の完成を祈願して建立したと伝わる日本最古の厄除け寺の松尾寺が付近にある。

「お師匠さんは厳然と『可哀そうになあ、あなたはもう絶対に救われませんよ』この一言にガクゼンとして『なぜですか?』『仏教の本を読んだ上に読み、聞いた上にも聞き、またその上に大きな、最も恐ろしい毒を呑んでいるから、どうにもなりません』『なんとかして助けて頂けませんか?』『吉野の大峯山か大台が原の山奥で、せめて十日でも坐って、物言わん岩に物言わせて帰ったら、ひょっとすると助かる見込みが立つかもしれんけど、あんたは賢すぎるからいけませんわ』ビクビクッとこぶしを握りしめながら、うめき声で誓いました。『ようし、命をかけて行って来ます!』(中略)昔、マンガンを試掘した洞穴で、花祭りのときに山遊びに行き、入ってみたこともあり、所在地もおおよそ覚えているつもりでしたが見つかりません。たしかにこの辺だったがと探しても、中々発見できず・・・(中略)そのうちに日はとっぷり暮れて、どうにもならず、ついに左側の中腹に法座を定めて坐りました。夜がふけてくると、周囲はしんとして静寂に包まれ、凍る大気を動かして松風の音が時々ゴーット起こり、そして法隆寺と大和小泉の間を走る関西本線の汽車が鳴らす汽笛の音が響いてきます。幸いにして雨も雪も降らず、天には星がきらめいていました。定めた法座に坐っていると、穏やかで豊かなにぎわいもあって、ちっとも寂しくないんです。不思議でした。穴の中に入りますと、入口から二メートルまでは立って歩けますが、四メートル先では頭が天井につかえるほど低く、そのまま右に曲がって三メートルほど行くと、少し坂になった室のような所があるので、土を平らにして法座を定め、坐りこみました。うすぼんやりと差し込む日の光で、昼と夜の区別はつきます。夜中に眠気に襲われていると、バタバタと突然、天井を羽ばたきするコウモリの音に眼を覚まされたこともありました。私の求道を念じる義母の祈りが、コウモリに姿を借りて励ましに来てくださったのではないかと思い、また元気を出して身調べ(内観)に励みました。」(同上)

「最初に吉本先生が身調べされたときは、うまくいかなくて、当時は飲まず食わず寝ずでしたから、とにかく大変だったのです。そういう条件を満たす人でないと、入門を許されなかった。松尾山というところに洞窟があるのですが、伊信先生は家に遺書を残して、洞窟に籠もって内観されたわけです。」(同上)

菩提の地・内観研修所

 昭和28年吉本伊信は病も癒え事業から引退。第二の人生を開始、大和郡山にて内観道場を開設。

「奈良市や片桐町からも多くの内観者が来て下さいました。途中お米を背にして駅で巡査にとがめられた人が、『内観研修所へ内観をさせて頂くために持ってきた自分の食べる米です』と答えたら、その巡査は、『あそこなら僕も知っております。どうぞ早く行って修養してきなさい』と無事に通して下さったとか、また公園で寝ていたら知らない人から内観の話をききましたのでと、訪ねて来られることもありました。ボロボロによごれたルンペン姿で内観に来られ、一週間お世話し、真面目に更生して頂いた方も何名かおられます。逆に、同じ世話をしても、温情に馴れて無心を常習とし、ついに脅迫めいた捨てぜりふを残して離れて行った人も何名かおられた。これは全く私の不徳のいたすところと恥じ入っております。世の中にそうした人のいかに溢れているかを知るにつけても、私は一日も早く、一人でも多くの人に内観を伝え、少年のころから抱き続けてきた夢を果たしたいと思いました。後年、奉仕の生活に入ったとき、未知の人々は私をえたいの知れない怪物かそれとも何か為にせんとする目的が別にあってのことか?と疑われたことも一再ではありませんが、少年時代、母の感化を受けたころからの三十年の宿願であって、決して一時的思いつきや偶然の成行きではなかったのであります。」(同上)

「伊信先生は身体が弱かったのです。昔、結核は死の病だったのです。なぜ結核になられたかというのは、商売も年中無休で、盆も正月もなく、やっておられたのです。それは内観を普及する資金を早く貯めて、『一日でも早く内観普及専門になりたい!』という思いで、やっておられたのです。従業員は交代で休みを取っていたみたいですけど、先生は盆も、正月もないのです。今でこそ、スーパーは元旦でもやってますけど、昔はみんな、三が日全部休んでいた時代に、そんなふうにやっておられました。『ホウキで掃いて、馬に食わせるほど儲かったときもある』とおっしゃって。(笑)そういうふうにして昼も夜も過ごして、仕事が終わったあと、内観の面接に各村(この頃、内観面接は事前に予約する形だった)をまわっておられました。自分が出張して行って、面接しておられたのです。あるとき、雨に打たれて、体力が弱っているところに、ある寺の結核に罹ったお嬢さんが、リヤカーか、荷車に乗せられて、内観に来られたのだそうです。当時、内観研修所は無料だったのです。それで『内観したいけど、一週間も仕事を休んだら自分が生活していけない』という人があれば、その人の日当とか、交通費まで出して、内観に来てもらったのです。私のところは今、研修費もらっているので、本当に恥ずかしくて、比較できないのですけども。(苦笑)それで、結核に感染されたわけです。だけども、別に自分が結核に感染されたということを全然恨んでおられませんでした。『結核のおかげで、商売の世界から足を洗うことができた!』と、逆に結核に感謝しておられました。」(同上)

参考図書(吉本伊信著)

 

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